芝居を観た後で。

 「できるだけ」という限定がついてしまうのですが、できるだけ芝居を観た後の感想をどこかに書きつけておくことにしています。
 といっても、紙のノートに書いただけだと散逸してしまう可能性が高いので、基本はツイッター。観たところと演目をまず書いて、後は思ったことをつらつら書いていく。
 できればツイッターの1つのツイートで演目1つの感想が書ききれればいいけれども、流石にそこまでまとめきれなくて、10くらいまで行くときもあります。
 理想は、
1.芝居を観た日、できれば幕間の時にささっと書いてしまいたい。
2.ツイートがただ単に役者名の羅列だけでなく、どこのどの演技がよかったか、脚本のどこの部分が興をひかれたかを書いておきたい。
3.感動したなら感動ができるだけリアルに伝わるようにしたい。
といったところだろうと思います。

 数年前に、「演劇界」で懸賞劇評があったときに、「劇評とは何だろう」ということについて、結構考えました。
 そのときの懸賞は外れて(選に漏れて)しまいましたが、文章を提出するまでに思ったのは、「自分がいいと思った芝居なら、ほかの人に観てもらいたい、と思うところを書くのが評というものなのではないか。」ということでした。
 ただ、ぼくは別に劇評家でもなんでもなく単なる芝居好きでしかないので、そこまでカッチリしたものを書かなくてもいいのではないかと思います。

 自分には、「本当に感動した芝居」の記憶がいくつかあって、その芝居を観たころのことについて、ちょこちょこ書きつけてある感想を見ることもあるのですが、常に感じるのは、「芝居を観たときの芝居の感想、印象とともに、当時の暮らしぶりとかが紐づけされているものだな。」ということです。

 先日、十七代目勘三郎追善の時の日記を分散してツイートしたら、たくさんの方に見ていただけたようなので、味を占めて、これまた過去の記憶の中で長く残っていくだろう、コクーン歌舞伎の時の書き付けを転載してみることにします。一部加工しています。

(ここから)
2003年6月27日(金)午前0時53分。

 bunkamuraのシアターコクーンへ。今日がコクーン歌舞伎「夏祭浪花鑑」の千秋楽。
 この芝居は途中、長町裏の殺しの場と、最後に団七と一寸徳兵衛が捕り手に追われるところで舞台後方の扉が開いて外から丸見えの状態になる。だから、舞台裏の搬入口から芝居を見よう、という魂胆。2ちゃんねるの「コクーン歌舞伎」スレとかでは結構人がいるという話だった。
 ずぶぬれの中、bunkamura通りを行く。9時くらいにシアターコクーンの裏の搬入口に来た。
 もう、100人〜200人くらいだろうか、ほとんどが女性で、浴衣を着た人とかもいる。搬入する車の駐車場の辺に立っている人もいるし、搬入口の入口のところに列をなす人もいる。とりあえず搬入口の入口のところに並ぶ。
 6時半開演で幕間込みで上演時間が3時間半、ということだから、あと1時間くらいは待たされることになるだろう。「長町裏」を見られないかとも思ったのだが、大きなうちわとかを藤浪小道具のトラックに積んでいるところをみると、もう終わってしまったらしい。
 ここからは長くなりそうなので、要点だけ。
 その後、搬入口の入口から中に入れてくれ、雨がざんざん降る中を天井がない車庫の内で待つ。おばはんも含めてとにかく女性多し。
 最後に出てくるパトカーのスタンバイも完了し、扉が開き、勘九郎橋之助がやってきた。拍手。手を振る人。前の方の人は屈んでいるので、結構見やすい。
 勘九郎橋之助は外の道まで行ってしまった模様。ファンの前を通るとおる。そして舞台に戻ってパトカーが舞台際まで侵入。これで幕。
 カーテンコールがすごかった。客席も総立ち。舞台裏組も拍手とてを振る。みんな興奮してきて、勘九郎も興奮して、少しずつ舞台裏組は舞台の方へ。そのたびにだんだん列が後ろになっていく。まあみんな前行こうとするからね。前が屈まないので後ろのおばはん連中が文句を言うが、大体彼女ら自身が前にいた頃には「背が低いから」とか言って屈まなかったんだから自業自得だ。
 ついに、コクーンの舞台に上がってしまった。
 一人一人列を作りながら、ぼくもコクーンの舞台へ。
 たぶん泥場とか作っているからだろう、板にはなっていなくて、布かゴザみたいなのが引いてあって、滑りにくいようになっていた。
 笹野高史さん(義平次役)がそばに見えたので、「楽おめでとうございます。お疲れ様」といって握手。すごいしわくちゃな手だった。
 勘九郎がそばにきた。「お疲れ様!!」といってハイタッチ。彼はもう顔の化粧にヒビが入っていて汗だくなんだけれども、嬉しそうにいろんな人と手をハイタッチさせていく。舞台上は舞台裏にいた人間で一杯。昔の阿国の歌舞伎踊りでもこんな感じで人が群れ踊ったのではないかと思わせるほどにみんな興奮して手を叩き、握手。
 獅童くんもそばを通る。「お疲れ様」って声掛けたけど無視される。いかがなものか。
 最後はみんなで上方の三本締め。「うーちましょ、しゃんしゃん、もひとつせ、しゃんしゃん、いわおうてさんど、しゃしゃんがしゃん」で〆。
 舞台から出るところで橋之助丈と握手。「お疲れ様でした。8月も頑張ってください」と声を掛けると「ありがとうございます」と返していただいた。これまた、顔の化粧にはヒビが入っていた。
 そばに七之助くんもいたけれども、女性と握手した方がいいだろうと思ったので、御辞退申し上げる。でも、顔は非常にきれいなつくりだった。女形だからかもしれないけれども。
 舞台裏にまた戻ったところで橋之助が手を振って、こっちも手を振ったり拍手したりするなか、また舞台と舞台裏の扉が閉まっていった。
 今回のこの演出(最後に裏を出す)は現代と原作の世界をつなぐ役割を果たしていた。前ここでやったときには長町裏では扉をあけたけど最後はやらなかったので、こういう、たくさんの観客が搬入口に集まる、ということはなかったと思う。
 今回、これをやったことで、団七や徳兵衛が、今の日本にでもいるようなヤンキーとかわらんのではないか、歌舞伎といって古いもののようにみえるけれども中の世界は今の世の中とそうかわらんのではないか、ということをうまく観客にわからせる効果があったのではないだろうか。
 あと、最後、搬入口からの客も観客に見せることによって、なんというか祭りのごちゃごちゃした雰囲気を全体として醸し出すことができたのかもしれない。そういう意味で面白い芝居だった。
 勘九郎はたぶん祖父である六代目菊五郎をかなり意識しているだろう。やってることがやっぱり六代目の来し方にだぶってくる。六代目は藤娘の演出を変えてしまったし、保名も変えた。華やかな五代目菊五郎の息として生まれ、活歴の九代目團十郎の膝下に育っているので、リアルにやる方向で歌舞伎を変え、それが今でも残っている。そのここ何十年かの伝統に勘九郎は新たな光をあて、替わった演出を定着させていこうとしている。
 これまで猿之助がそういう役割を主に担い、玉三郎も手がけてきた、ただ、彼らは異端の歌舞伎である。それは、門閥の問題から。
 門閥も由緒正しき勘九郎が替わった演出を試みることで、確実に歌舞伎は変わっていくだろう。もっとも、いつでも変わっていくのが歌舞伎であり、演劇であるのだけれども。
 8月は11日から野田秀樹の「鼠小僧」(歌舞伎座:八月納涼歌舞伎)である。あの感動の「研辰」の初日を超えることができるか。今日の感動的な楽の盛り上がりから考えると、期待できそうな気がする。
 夜の一番最後の芝居なので、平日であるが、できれば初日に幕見に行きたいと思う。
 というわけで、はっしー勘九郎と笹野さんに握手をしてもらった、しかもかの中島みゆきが「夜会」をやるというシアターコクーンの舞台に立ってしまった、という自慢話をお届けしました。
 おやすみなさい。

(ここまで)

 これなんかは、まともに芝居を観たわけではないのに、ぼくの中の「芝居見物の記憶」の中で大きなウェイトを占めている記憶です。
 このコクーンの夏祭の楽のことを思い出すたびに、当時は仕事もリハビリ中でのんびりはしていたものの、焦りみたいな気持ちがあったことも思い出します。
 そして、当時の中村屋は、みんなを巻き込んで、思い出を作っていくパワーがあったなあ、ということも改めて感じます。

 今のツイッターがどれくらい保存されるのかはわかりませんけれども、ぼくは、できるだけ芝居見物の印象を書き散らしていきたいな、と考えています。
 昨日の俳優祭の皆さんのツイートも、今後の自分の記憶に残っていけばいいなあ、と思います。(楽しかったみたいだし。)

追記
 検索をかけてみたら、たぶん、この方は客席からごらんになっていたのだろうと思います。

コクーン歌舞伎『夏祭浪花鏡』千秋楽。」
http://14845.diarynote.jp/200306260000000000/