KAAT「木ノ下歌舞伎 勧進帳」を観ての感想文。

 神奈川芸術劇場KAATで、木ノ下歌舞伎の「勧進帳」(3/3(土)14:00)を観た。舞台は80分。
 通しての印象は「まあまあ」です。絶賛するほどよくはないと思った。

【よかったところ、面白かったところ】
1.義経一行が富樫たちが守る関を通り抜けるところを、富樫たちの場面、弁慶と四天王の場面、義経の場面、の3つに分割して、例えば富樫たちや義経の場面には、弁慶の発するセリフをスピーカーから流したところ。
 1つの場面ではあるけれども、それぞれの心情についてお客さんに想像させ、他の登場人物の台詞をスピーカーから流すことにより、分割された場面だけれどもお客さんの方で場面を統合し、複合的な理解を得ることができたのではないかと思う。

2.義経の四天王と富樫の番卒を同じ人が勤め、場面に応じて適宜入れ替えることにより、四天王も番卒も所詮家来に過ぎない(もっと言えば、弁慶、富樫、義経と同様、一人間に過ぎない)ことがはっきりしたところ。
 ただ、最後に富樫がコンビニの菓子袋を持って現れたところは、1人くらいは番卒に回してもいいのに(四天王は多分4人フルではいらない)と思った。

3.義経が階段を上がって引っ込むところ、階段の真ん中あたりから舞台を眺めるときの何となく晴れ晴れとしたような顔つきがよかった。(これからも苦難は続いていくのであろうが・・・)

4.舞台装置で舞台を挟んで観客が向かい合うことにより、関での弁慶、富樫の対峙とは、自分たちにとってはこのようなものなのか、とつかむことができたところ。ただ、対抗戦のように弁慶、富樫が客席に背を向けて演じるのでは舞台幅も足りないし、絵面のきれいさが味わえないな、と開演前に気になっていたが、流石に演技は普通の舞台のように展開されていた。

5.はじめの富樫と番卒たちとのやりとりの中で、首のような黒いものが転がっている中で、「僕たちもこうなるよ」と、今後の悲劇を暗示させたところ。
 ただ、幕切れの前、四天王や弁慶が踊っているのを観ている富樫、暗転の後、ラジオから流れてくるニュースを聞く富樫は、「命にかけて唯一の友達を得ました」みたいな雰囲気を醸し出していたが、本当にそれでいいのかなあ?

6.はじめの富樫と番卒たちとのやりとりを通じて、「日常の中の非日常が演劇である」ことを改めて実感したこと。

【うーん、と思ったところ。首を傾げたところ】
1.最も強い印象なのだけれども、「ここまで原作に忠実に現代の台詞にしなくてもいいのでは?もっと台詞などは切ってしまってもいいのでは?」と思った。
 大体、どうなるか、は頭に入っているので、換骨奪胎して今の芝居にしてしまってもいいのではないか?という印象は強く受けた。
 具体的には・・・結構忘れてしまったけど、問答、判官御手の辺り。大体、流れがわかっているところは眠かった。

2.忠実に現代の台詞、動きにしたことによって、結局「富樫がなぜ、義経たちの通行を許したのか」というところが、よくわからなくなった。歌舞伎の勧進帳は、何と無くの雰囲気で「弁慶の必死さに富樫がうたれて通行を許したのかなあ?」という感じで芝居が流れていくけど、今回、別に弁慶は涙を流すわけでもなし、よくわからなかったな。
 ただ、そんな中で感じたのは、「ここの場面は、別に誰がどうしたから義経一行が通行できた、というのではなく、観客の『通行させてやりたい』か『もともと通行できるものなんだ』という思いが、義経一行を通行させているのかもしれないな、ということ。そんな印象を持ったのは初めてでした。

くらいですか。